一回だけの録音で解散するはずの風林火山が、音楽だけにとどまらず面白いことなら何でもやるイベントグループに変貌して行ったのは、彼らの個性的でユニークな言動を考えると明らかに自然な流れだった。 |
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その後、当初から風林火山のファンであるH(愛称:シーちゃん)、M岡が加わり、7人で行動するグループに成長した。
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なかでも、1979年5月6日に行なわれたバレーボール大会はJR六甲道にある六甲勤労会館の体育館を借りての本格的な催しになった。
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第二次風林火山は録音だけが目的で練習しているのではなく、コンサート活動という新しい目標が生まれていた。
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このときは、妙にこった演出を企画してしまい、それが仇になって大失敗してしまう。はっきり言って身内にうけただけである。
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二度目のコンサートは1978年12月24日。西宮養護施設「砂子療育園」での慰問コンサートであった。
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さて問題は三度目のピッコロシアターコンサートである。音楽部門のCDのジャケットにも書いているが、本当に恥ずかしい思いをしたのは、後にも先にもこのコンサートだけである。 |
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練習に練習を重ね準備は万全。後は本番を待つだけ、このときは「矢でも鉄砲でも持ってこい」の余裕だった。
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初めから最後までトチリまくり、間違いだらけ。ひどいときには演奏を中断して初めからやり直す始末である。演奏の合間にしゃべる話も支離滅裂。長々しゃべってしまうかと思うと、今度は間があいて「し~ん」としてしまう始末。 |
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「本当に恥ずかしかった。」おそらくメンバー全員そう思っていたのではないだろうか。いまだに昔話で盛り上がっても、このときの話題は避けているような気がする。
ピッコロの失敗から半月後の8月12日に、懲りずに四度目のコンサートを行なっている。この立ち直りの良さが若さのパワーなのかもしれない。
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五度目は大阪・森之宮にある大阪鉄道病院高等看護学園のクリスマスコンサートにゲスト出演をした。
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六度目は練習場所にしていた本山第三小学校の教室で、〝風〟さんの就職祝いコンサートを行なった。 |
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〝風〟さんが就職した後、メインボーカルを失った風林火山はコンサートを行なうこともできず目標を失っていた。
その後、風林火山は20数年間の沈黙期間に入るが、やはり、火種は残っていた。WHOが絶滅宣言を出した病原菌でも、新しい形で再び自然発生することもあるが、まさか20数年後に第四次風林火山として蘇るとは、このとき、メンバーですら想像もしていなかった。
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