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 一回だけの録音で解散するはずの風林火山が、音楽だけにとどまらず面白いことなら何でもやるイベントグループに変貌して行ったのは、彼らの個性的でユニークな言動を考えると明らかに自然な流れだった。

 結成一年を待たずしてギター担当のI氏はグループを離れ、音楽の道にまじめに向かった。
リードギターの抜けた穴は〝リーダー〟が担当し、〝山〟チャンがドラムに昇格?そして機材運びをしていた筆者がミキサーをすることになった。さらに、新生・風林火山を記念して、【風林火山】の4文字を演奏メンバーに割り当て、【風】を風さん=ボーカルとサイドギター。【林】を〝リーダー〟神谷さん=リードギター。【火】を〝のんぺ〟野口さん=ベースギター。【山】を〝山〟チャン山本さん=ドラム、そしてミキサーを筆者(愛称:ぺに)石川が担当する、新しい5人の【風林火山】が誕生した。

Date 1978年11月12日 Date 1978年8月頃
Loc: 某女子大2階廊下 某女子大2階教室
第二次風林火山結成記念 ぺにさんのミキサー風景。
  

 その後、当初から風林火山のファンであるH(愛称:シーちゃん)、M岡が加わり、7人で行動するグループに成長した。


こうして、第二次風林火山は別のグループやファンの人達とコンサート、年中行事、狂化合宿、宴会、引越し祝い、ミーティング、スポーツなど、ありとあらゆるイベントを計画し、積極的にハイペースでこなしていった。

Date:1979年12月16日 Loc: 三田国際スケートセンター
気になるカップル誕生。 どんな時でもギャグは忘れません。 サッソウと登場の
『ぺに』さん。
     

Date:1979年5月6日 Loc: 六甲勤労会館の体育館
ファンの人たちと記念撮影。 誰も取れない『ズッコケ』サーブ
が決まった瞬間。
全員が『ズッコケ』ました。
風林火山好例の
恐怖のスキンシップ。
一番下の人はかわいそう。
     

 なかでも、1979年5月6日に行なわれたバレーボール大会はJR六甲道にある六甲勤労会館の体育館を借りての本格的な催しになった。
こうなってくると、ただの音楽グループではない勢いである。

『のんぺ』さんのアタックが!
決まったのかな?
おもちゃにされる『ぺに』さん。
   

 第二次風林火山は録音だけが目的で練習しているのではなく、コンサート活動という新しい目標が生まれていた。
 コンサートで味わう緊張感は今までにない刺激があり、やがてのめり込んで行った。
 そのきっかけになったのは1978年11月、風林火山がゲスト出演をした大手前女子大学の文化祭コンサートである。

Date:1978年11月12日 Loc: 大手前女子大学祭
笑いを取ろうとあせるリーダーと
しらける客席にビビる二人・・。
無反応な客席にあせるメンバー。 だ、誰だ。チミは!
     

 このときは、妙にこった演出を企画してしまい、それが仇になって大失敗してしまう。はっきり言って身内にうけただけである。

それ以外の客はしらけていた。音楽に興味の無い客かと思ったが、この後に出て来たロックグループは狂乱の盛り上がりになっていた。

やはり女の子にうける音楽はいつの時代もロックである。


 二度目のコンサートは1978年12月24日。西宮養護施設「砂子療育園」での慰問コンサートであった。

 養護施設への慰問ということもあって、反応がいまいち伝わってこない不思議な雰囲気の空気にドキドキしていたが、会場が教室という小規模だったのであまり緊張も無く無事終了した。

 後片付けをしているときにコンサートを見ていた親子が車椅子を引きながらやって来て、普段レコードで聞いている曲を生の音で初めて聞いたと、えらく感謝されたことが、いまでも心に残っている。このメンバーでも良いことをすればできるものである。

Date:1978年12月24日 Loc: 砂子療育園
「野口君これがマイクだよ。」
「知っとるわい!」
なぜかご機嫌なリーダー。 こちらもご機嫌な『風』さん。
     

 さて問題は三度目のピッコロシアターコンサートである。音楽部門のCDのジャケットにも書いているが、本当に恥ずかしい思いをしたのは、後にも先にもこのコンサートだけである。
 三度目のコンサートにもなると、オリジナルの企画を考え構成を練った催し物を開きたくなる。
 このときは魔が差したのか自分達の力量も考えずに、無謀にも尼崎市営のピッコロシアターでコンサートを開く計画を立ててしまった。

Date:1979年7月22日 Loc: 尼崎市ピッコロシアター
大失敗コンサートの開幕です。 舞台も照明も本物です。 掲載を知らせるチラシ。拡大
     

 練習に練習を重ね準備は万全。後は本番を待つだけ、このときは「矢でも鉄砲でも持ってこい」の余裕だった。

 1979年7月22日 日曜日。開催当日、現場に到着してみてびっくり。ピッコロシアターが想像以上に立派な建物なので立ち尽くした。

 ホールは数階建てのビルで、大中小ホールと分かれておりプロのミュージシャンが本格的にコンサートや演劇をやっているらしく、その開催日を知らせるポスターがたくさん貼ってあった。
入り口からスロープが二階にまで続いており、さらに受付の後ろには大きなロビーが広がっている。機材も入り口から'よっこらよっこら'入れ込むのではない、ホールの裏からトラックで搬入できるように機材搬入専用の入り口があるのだ。我々の借りた小ホールも、小さいからといって手抜きなどされていない。音響設備は充実しているし照明設備も本格的である。

女子大の舞台と養護施設の教室だけしか知らないグループが、本物のホールでコンサートを企画したのである。
 機材を入れ終わった時点でプレッシャーから、全身の力が抜けて行く感じを味わった。その上、新聞や情報雑誌、街頭ポスターまで貼られ、その中には【風林火山コンサート】の文字と、開催日がデカデカと掲載されているのだ。
 やがて開催時間になると身内や友人に混ざって、なんと、チラシを見た一般の人達まで入場して来た。中には親子連れの姿もあり、これを見たメンバーの頭の中は真っ白、練習して来たことも何もかも吹っ飛んでいた。

Date:1979年7月22日 Loc: 尼崎市ピッコロシアター
Title: お客さんたち Title: こ、これでも、お客さん Title: この子達も、お客さん
空席以外は満席。
なんと、女性ファンの多いこと!
中にはこんなお客もチラホラ。
おいおい、おめーら。
この子達には、どう写っていたの
でしょう?将来に悪い影響が出な
ければいいのですが・・・
     

 初めから最後までトチリまくり、間違いだらけ。ひどいときには演奏を中断して初めからやり直す始末である。演奏の合間にしゃべる話も支離滅裂。長々しゃべってしまうかと思うと、今度は間があいて「し~ん」としてしまう始末。

一般客は早々に帰ってしまうし、その姿を見ると余計に緊張して間違ってしまう。休憩終了後の最初の演奏が始まるのにベースとミキサーが便所に行っており、しばらく待つというアクシデントまで発生した。
このときばかりは本当に失敗したと思った。筆者の中では今のところ人生最大の失敗かもしれない。

お客さんと一緒に唄うコーナーもありました。
Title: お客さんたちと唄おう Title: う、唄いたいくない~ Title: 酔っ払いベース
こんな可愛いファンなら大歓迎。 だ、誰だ?裏稼業のおっさんが
混じっているぞ!警備員を呼べ!
「ええぞ、ええぞ!」
ビールを飲んでるベースマン
『のんぺ』さん
     

 「本当に恥ずかしかった。」おそらくメンバー全員そう思っていたのではないだろうか。いまだに昔話で盛り上がっても、このときの話題は避けているような気がする。
 筆者は〝風〟さんから、このときの風林火山コンサートの掲載された催しポスターを現在預かっている。おそらくこれが街に貼られていたのだと思われる。



 ピッコロの失敗から半月後の8月12日に、懲りずに四度目のコンサートを行なっている。この立ち直りの良さが若さのパワーなのかもしれない。

 四度目は、〝山〟チャンの母校である本山第三小学校で、同校卒業生の同窓会での出前コンサートであった。
このときは仕事の関係で〝のんぺ〟が欠席しており、ベースの無い迫力に欠けるコンサートになってしまった。ベースは目立たないようでいて最重要なパートである。
 ピッコロシアターの後遺症がまだ癒されていなかったため、初めはビクビクのコンサートであったが相手が小学生だということでなめていた。

 しかし、だんだん場が慣れて来た子供達は恐ろしい。こちらの唄は聞かなくなるし、やがて騒ぎ出しあげくの果てにはアンコールで「ウルトラマン」をやれだの、言い出す始末で完全に遊ばれてしまった。

なのに、こんな演奏になんと!2万円近くのギャラを初めて頂いたのである。正確な金額は知らないが、このお金で日本海の夏合宿のキャンプができたのである。

Date:1979年8月12日 Loc: 本山第三小学校
子供だと、なめてかかると
恐いよの巻き!
ミキサーに集中する『ぺに』さん
体が硬直してない?
   
Date 1979年8月12日
Loc: 本山第三小学校
バンジョーも担当しました。
 

 五度目は大阪・森之宮にある大阪鉄道病院高等看護学園のクリスマスコンサートにゲスト出演をした。

Date: 1979年12月15日 Loc: 大阪鉄道病院高等看護学園【クリスマスコンサート】
お客さんも大勢集まりました。
それに全員女性です。
す、すごい!って看護婦さんの
学校ですから・・・。
他の出演者 その1 他の出演者 その2
     



 さすがに五度目になるとそれほど緊張もせず、他の出演者を圧倒するパワーで、演奏合間の会話では会場から笑い声が出ていた。 さらにコンサートの最後の曲では会場一団となって「ハンドインハンド(アリス)」を合唱するところまでになった。
このときのギャラはカレーライスだったが、この辺が学園コンサートらしくて微笑ましい。


そのころ楽屋では
緊張する他の出演者。
写真はグループ『吉野家』さん。
まったく緊張していない。
お気楽トンボたち。
ギャラのカレーライスに群がる『こいつら』
     



 六度目は練習場所にしていた本山第三小学校の教室で、〝風〟さんの就職祝いコンサートを行なった。

身内と友人だけを呼んでのコンサートだったので、このときは緊張も無く一番盛り上がったような気がする。
もっともコンサートと言わずに公開練習と、言った方が良かったかもしれないが、観客と一体になり大成功したと言えるだろう。

Date: 1980年3月23日 Loc: 本山第三小学校
鉄っちゃんさよならコンサートに
集まってくれた極楽トンボ達。
唄を聞くというより井戸端会議です。
誰かビール飲んでるし・・。
『風』さんともこれでお別れ。
最後の後片付けをする。
最後にスタッフと記念撮影。
     


 このコンサートを最後に〝風〟さんは就職し、第三次風林火山の時代を迎えることになった。




 〝風〟さんが就職した後、メインボーカルを失った風林火山はコンサートを行なうこともできず目標を失っていた。
 だが、新規にF氏が特別参加するなどして打楽器系を重視した曲に移ったり、エコーチェンバーなどの機材を導入するなど試行錯誤を繰り返した。

 ここで参加して来たF氏は、もともと初めから風林火山のメンバーになるはずだったのだが・・・。なぜメンバーにならなかったのかは筆者は知らない。

 しかし彼は恐ろしくドラムのうまい人物で「セルロイドカラー」で初めてドラムを披露したが、レベルはひとつもふたつも上である。叩く音からして違っていた。
 それもそのはず、彼は'研ナオコ'のバックバンドにいたプロであった。そのF氏がパーカッションを担当した曲も数曲、CDに収録してあるので聞いてもらいたい。

 F氏のパーカッションのおかげで、新しい音が出せるようになった第三次風林火山は、演奏ジャンルがずいぶん変わり、ニューミュージック系の曲が増えていた。しかし、新しくなったのはF氏のパートだけで、筆者のギターのまずさが足を引っ張っており、さらにボーカルの弱さが表に出始めていた。やはり〝風〟さんの抜けた穴は大きく風林火山はみるみる勢力が衰えて行き、やがてその歴史を閉じたのである。


 その後、風林火山は20数年間の沈黙期間に入るが、やはり、火種は残っていた。WHOが絶滅宣言を出した病原菌でも、新しい形で再び自然発生することもあるが、まさか20数年後に第四次風林火山として蘇るとは、このとき、メンバーですら想像もしていなかった。
『おぉ。恐ゎ~』  風林火山CD化計画へつづく・・・・・。



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