これだけ無茶苦茶な行いをしてきた風林火山であったが、それを裏で支えてくれた人々がいる。
まず初めに、N川浩氏の存在を忘れては風林火山を語れないであろう。N川氏(以下マスター)は、若者の集うコンサートホールを作るのが夢で、ブティックを3軒も経営する奥さんと夙川教会の近くで、カフェテラス風のおしゃれな喫茶店『Cafe’de Barton』を営んでいた。
この店では風林火山のメンバー全員が常連で、元メンバーのI氏や、I氏の友人(現在、M日放送の記者(もと『ももんがバンド』後に『たるげん』を結成)らはバイトもしていた。さらに筆者と野口などは我が家同然に通っていた。
店の一階は駐車場で二階が入り口になっており、壁から屋根まで建物全体が白いテント張りの珍しい造りだった。
テントだからといって別に建築費をケチったわけではない。オープンテラスをイメージしているらしく、晴れた日にはテントをはずして太陽の陽の当たる本物のテラスが再現できるようになっていた。しかしその後、店がビルになるまでテントは一度もはずされることは無かった。だが、白いテントが幸いして昼間はライトがまったくいらないほど内部は明るく、おしゃれなテントの店として、よく雑誌の取材が来ていた。
しかし、そのテント張りが悩みの種になっていた。それは夜の騒音である。夜はこのままパブ風のバーに変身し、昼間バイトをしていた大学生らが客となって騒ぐのだ。店は毎夜々ドンちゃん騒ぎが続き、筒抜けになった騒音は夜11時を過ぎても収まらず、たまりかねた近所の通報で警官が飛んでくるのが日常茶飯事であった。
(ここのバイト連中はここで稼いだバイト代をせっせと、夜の飲み代として支払っているのだからいったい何をしていたのだろう・・・・・・・・・。)
温厚なマスターはこんな状態でも、常に若者を暖かく見つめており、何かしら志しを持っている者をかわいがっていた。デザインを目指す者がいれば店内のガラスに絵を書かせたり、メニューを書かせたりしていた。
ちなみに〝リーダー〟はシャッターにペンキで自分のデザインした絵を書いていた。
また、服飾デザイナーを志すものがいれば、作った服を店に飾ることを許していたし、ミュージシャン志望のグループを集めて店内でミニコンサートを開く事もあった。その連中の演奏は風林火山をはるかに超えるレベルであったため勉強になったが、ドンちゃん騒ぎのレベルは風林火山の方が上で、右に出るグループはいなかった。
マスターは筆者や〝のんぺ〟のいたずらにいつも耐え、笑っていた。
クリスマスの夜に点灯しているロウソクを遊び道具にした筆者は、溶かしたロウソクのロウでテーブルの上をコーティングするというとんでもないことをやってしてしまったが「あほか、お前らは」と軽くしかるだけであった。
だが、マスターは何をしても怒らない訳ではない。我々と宴会をして酒を飲んでいた『ある』人物が、店に飾ってあった何十万もする毛皮の敷き物を勝手にはずし、ふとん代わりにして寝てしまった。これを見つけたマスターはさすがに怒った。本人を店の奥に呼び出し、コンコンと説教をしていた。このようにマスターは、怒る時があれば必ず本人を店の奥に呼びつけるか、店内の隅のテーブルに呼んで個人面談で怒るのである。まるで学校の教師である。
そんなマスターがみんな本当に好きだった。その人柄に徐々に仲間が集まり、店は常に若者で満員だった。マスターが客を育て、育った客がまた新たな客を育てるという連鎖で、今ではほとんどなくなってしまったと思われる、常連客同士の心地良い上下関係が成り立っていた。
やがて店はマスターの念願だったコンサートホールのある、地下一階、地上三階建てのビルに生まれ変わった。ホールでは演劇やコンサートが開かれ、地下には喫茶・パブの店がオープンした。
ところがこの店もこれからと言う時、何の前触れも無く突然、1997年4月13日、癌で死去。本当に突然である。五十歳を越えたばかりの突然の死である。その半年ほど前に筆者は店で、マスターといつものようにくだらない会話をしていたのに、あまりにも突然でショックなニュースだった。
筆者はマスターの死を信じたくない一心で葬式に出なかった。行けばマスターとの関係が本当に終わってしまう気がした。祭壇に飾られたマスターの写真を見た瞬間に自分の中からマスターが思い出としてしか残らなくなってしまうのが無性に怖かった。
筆者の中ではマスターは今でも実在しており、明日にでも店に行けば、タバコをくわえた姿で「おぉ、久しぶり。どや、〝ぺに〟景気は?」と言いながら、テーブルまで案内してくれるはずである。〝忙しくて行けない〟から会えない。ただそれだけなのである。
マスターへ、「暇が出来たら行きますんで、俺のボトル捨てんといてねぇ。」
阪急武庫之荘の北側に小さな居酒屋がある。この話にもよく出てくるが「軒端」である。夙川の喫茶店が'若者の集まる場所'に対してここはそれを卒業した、いわば中堅どころの集まる普通の居酒屋である。他の店と違うとすれば、それはここの女将さん、H・厚子氏(愛称:あっちゃん)である。彼女は河内生まれの生粋の関西人で、一度板前さんと結婚したが口より手が先に出るという旦那のために家出。そして離婚、1974年5月。裸一貫で居酒屋「軒端」を始める。
関西学院のバイトを何人も子分に持ち、ヤクザでも叱り飛ばすほどの気丈夫な女将さんであるが、普段は気さくで明るい。使い古しの言葉で悪いが、まがったことが大嫌いで竹を割ったような性格の標本のような人である。ただ、真っ直ぐにしか物事を表現しないために嫌う客もいるが、おそらく女将さんなら「そんな客は来ていらん」と河内弁で言うだろう。
当時は、そんな姉御肌に惚れて若い女性客も大勢来ていた。女性が集まれば自然に男も集まるが、下心のある狼どもは女将さんの一撃で二度と寄り付かなかった。夙川の喫茶店もそうだが、筆者はこの店でも常連で21歳の時から通っており今でも続いている。ここで子供から大人に成長したといっても過言ではない。
マンションの一階で、奥まったところにあるために少々騒いでも文句の出ない場所だったので、ここでも風林火山は好んで出没していた。彼らの歌う隠語の唄や踊りは、この店の年上の常連客に教えてもらったような記憶がある。
ここの女将さんは何でも相談事を聞いてくれる心強い性格でもあったために、常連客の職種が多種に渡っていた。サラリーマンは当たり前、女子大生から不倫のカップル、博打に負け借金が払えずに『たこ』部屋に掘り込まれていた親父とか、その親父の話を笑いながら聞いている(名前は書けないが)大会社の社長。かと思えば自分の息子の嫁探しをしているある都市の市長(これも名前は書けないが地元の市長ではない。本人が言うには地元で飲むと文句ばかり言われるので離れた土地で飲むらしい。)が酒をあおっていたり。TV会社の人間が芸能人を連れて来たり、一銭も金が無いのに飲みに来て、自分の書いた絵を置いていった画家とか・・・。ちなみにこの画家の書いた絵は筆者が貰って保管してある。値が上がるといいな・・・。
また、店が解りにくいところにあるのが幸いしているのか、この店は不倫のカップルが結構多く、ここをデートの場所にしており、連中が来ると店内でいちゃつくのが面白い。そしてそれを見たさにいつもより客が増える始末である。
さらには、男を求めてやって来る〝男〟の客も出没する。ぽっちゃりした体系の友人(彼の将来のために、せめて名前は伏せておこう。)の一人がよく目をつけられていた。(ご愁傷様・・・)この手の客は独特の雰囲気をもっているために、店にやって来ると空気を察した常連客は雲の子を散らすようにいなくなった。まるで世の中の縮図のような店である。
まだ忘れてはいけない人たちがいる。ファンの人たちである。異存はあるかもしれないが筆者の見解でファンと呼ぶ。ただし、コンサートのファンではなくて風林火山の催す宴会のファンなのである。
宴会別に名前をあげてみよう。風林火山前半に登場するランちゃん、摩耶ロッジで一緒に騒いだMちゃん、S水さん、N田さん。忘年会に来たA本さん、A井さん。そして大阪鉄道病院看護学園のコンサートで司会をしていたT林さんなど、みんな宴会でいっしょに騒いだ仲間である。
ここで一人だけ名前を書かなかった人物がいる。この人だけを別格にしているのは、筆者と同じく結成当時からの風林火山の大ファンで、筆者がいつの間にかメンバーに潜り込んだように、この人もいつの間にかマネージャーとして潜り込んだ口である。
名前はH滋子。愛称シーちゃんである。常にメンバーの世話を焼き、練習日には自腹で弁当を作って来てくれるなど、ありがたい人物である。 またピッコロシアターコンサートでは、アルバイトニュースという雑誌に風林火山が出演する記事を掲載するなど、広報の仕事もしてくれていた。 彼女は常に風林火山のバックアップに回り、筆者の親父の葬式まで手伝ってもらった。現在は名前が替わり子供も授かり幸せに暮らしているという話である。
最後に〝山〟チャンの親父さん、山本電子の社長と風林火山が練習場所として借りていた教室を管理している多○酒店の店主、T田氏を紹介しておく。
〝山〟チャンの自宅は山本電子という電気関係の組立工場で、風林火山のメンバーも夜間だけ集団でバイトをさせてもらっていた。 親父さんはでっぷりと太り、性格はおだやかで苦労を表に出さず、近所に慕われている下街の社長というイメージだった。特に筆者はいろんな意味でお世話になり、結婚式の仲人までしてもらうつもりでいたのに、その話が進んでいる最中に残念なことに他界されてしまった。あまりにも早く逝かれてとても残念である。
T田氏は酒屋を営みながら店の前にある本山第三小学校の休日一般公開の教室を管理していた。月に1~2回、風林火山がその教室のひとつを借りていた。
風林火山が練習すると大きな音が外に漏れているのに、いやな顔ひとつせず貸し続けてくれた。
それなのにある日。小学校の教室に、なんと、エロ本を置き忘れて帰るという、とんでもないことをしてしまったのだ。翌日は登校日、生徒達が登校してきたらえらいことになる。もう教室は貸してもらえなくなるはずである。その夜、〝山〟チャンがこっそり打ち明けたところ、そこの奥さんが笑いながら本を差し出してくれた。おとがめ無しで無罪放免であった。
その後、風林火山では感謝の気持ちを歌に託し「T田さんありがとう」というブルース調のオリジナルソングを作っている。
たった三年間であったが、これだけ大勢の人達と深く関わり、その人たちの人情が風林火山という構造体のひとつひとつに影響し合い、グループ風林火山が成り立たっていた。そしてこんなに面白い青春を送れたことにあらためて気付いた。本当にありがたい事である。
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