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 先日、風林火山が出没していたおもな場所を歩いてきた。さすがに22年という歳月は長く、 また大震災復興の影響もあって、ほとんどおもかげを残していなかった。

 まず夙川で降りて、「Cafe'de Barton」へ行ってみた。定休日だったのか営業をしておらず、しかたなく次の目的地に向かった。
 「Cafe'de Barton」から北へ阪急甲陽園線に沿って苦楽園口へ向いて歩く。
 大震災の時には道の両側に何階建てだったのか分からないほどに破壊された家屋が、延々と並んでいた地獄絵のような道だったが、今はすっかりきれいに再興されていて当時のことを知らない人には、ここらがそんな惨状だったとは気が付かないだろう。(ちなみに筆者は震災直後のこの道をビデオ撮影している。)

 話が外れてしまったがその道を北へ10分。そして、夙川小学校の方向へ左に曲がり20メートルほど行くと筆者や〝のんぺ〟の下宿になっていた「夙北苑」が見えてくる・・・。はずが、見えてこない。なんとそこには敷地が倍ほどになった2階建てのおしゃれなマンション「××メゾン」が建っていた。メンバーの宿泊施設にもなっていて、窓がひし形に変形してなかなか開けれなかった筆者の部屋21号室。いつも下の夫婦の怒鳴り声にびくびくしながらこっそり宴会をしていた〝のんぺ〟の22号室、時々その宴会に参加していた人の良い春○さんの部屋も、植わっていた樹木一本も残さず、あのオンボロ「夙北苑」は跡形も無く消えていた。

 気を取り直して阪急夙川に戻る。そこから南へ国道2号線まで川沿いに5分ほど歩き、2号線を左に折れて数分で、風林火山のミーティング会場と食堂にもなっていた「スカイラーク夙川店」がある。が、これも見えてこない。途中に「クリスボン」という"お化け城"のようなレストランは、風林火山の時代に潰れていたのは知っていたが、まさかスカイラークまでも・・・。そこは 「焼肉のさと」が入った大きな食堂ビルに大変身していた。待ち合わせ場所に使っていた、なつかしい「スカイラーク」の駐車場も無くなり地下駐車場になっていた。

 再び、気を取り直して今度は阪急西宮北口へ。阪急電車で夙川から大阪へ向かって一駅、西宮北口に到着。西出口から出ればすぐに、風林火山がコンパをするときに利用していた「マルコポーロ」があるが、何やら駅周辺が大変化をしてそうな気配いを受けたので、南出口から降りて西出口までぐるっと廻ってみることにした。

 この駅周辺も震災の復興計画の中心で、駅の周辺は当時の跡形がまったく無くなり、「ポンテリカ北口」と呼ばれる店舗ビルが立ち並び、さらに高層ビルの工事が何本も平行して進んでいる。
1年後、再びここに降り立ったときの驚きが想像できそうだ。現に今でも浦島太郎状態に陥って高層ビルを眺めて立ち尽くしていた。そんな工事現場をかいくぐり南から北へそして西口へ向かう。

 小さな飲み屋が並んだ狭い路地を歩いて行った記憶を頼りに歩くが、そんな風景は皆無で、工事現場の足場のようなところや近代的なドーム型の高架になった歩道をまるで田舎モンの如く、びくびくしながら歩くこと十数分、ようやく西出口の公園前に出た。
 通行人の前で漫才をした盛り土は無くなり立派な公園になっているが昔の雰囲気は残っている。この公園の向こうにマルコポーロがあるはずであるが・・・やはり無い!ここも無くなっていた。
 敷地の跡にはハンバーガショップ「WENDY'S」に、そして地下にはイタリアンキッチン「Ricotta」があった。昔の景色がことごとく無くなっており、あまりに残念な気持ちで無力感を覚えた。
 マルコポーロの周辺を歩き回ってみたが、何となく記憶にある場所はあったものの、ほとんど知らない土地のようで、行く場所も無くしかたが無く、帰路についたが、本当に「浦島太郎」であった。

 残念ながら記憶の片すみに残っているなつかしい風景は、歳月という流れに消し去られていた。
「青春とは過ぎ去ってからしみじみ思い出すもの」と誰かが歌っていたが、まさにその通りだ。我が家の押入れに眠っているカセットテープの数々が、夢の中に押し込まれてしまった宝を見つける貴重な鍵のように思えて来た。






 最後に、取材に快く了解してくれた「のんぺ」君。数々の貴重な資料を喜んで貸してくれた風さん。筆者の持っていなかったテープを提供してくれた山ちゃん。さらにはテープの提供だけでなく、赤字覚悟でCDジャケットのデザインと、この小冊子の編集・印刷・製本までしていただいたリーダーと(株)Mトップのスタッフの皆様に心より感謝します。
 そして、このCDを聞いたことで忘れかけていた青春時代を思い出し、その夜の酒の肴が少しでも美味くなってもらえれば幸いです。

1999年12月



追記:

すべてが消え去っているわけでなく、ピッコロシアターはますます多彩な催し物を活動的に行なっているし、「Cafe'de Barton」も経営者が代わってはいるが店自体は、今も同じ場所に建っている。そして、武庫之荘にある「軒端」に至っては当時のままの内装で、歳こそ取ったが昔のままの女将さんが今も元気に酔っ払い相手に商売を続けている。


ホームページに掲載されております『風林火山HISTORY』は、21世紀ミレニアム記念として作成された『風林火山・REMIX』CD5枚組みの中に付録として同梱されています同名の小冊子の中から抜粋し、一部変更及び追加してアップしました。
『風林火山・REMIX』の製作・完成に至るまでの経緯は風林火山CD化計画をお読みください。


〝風〟さんが語る風林火山の由来
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 風林火山っちゅーのは甲斐の国(今の山梨県)の武将、武田信玄がいくさの旗印に使ったもので、速き事風の如く、静かなる事林の如く、侵略する事火の如く、動かざる事山の如し。と説いた合戦の極意のようなものなのですが・・・。
 ぼくらの場合は、山ちゃんがドラムたたいてたので"山"、ベースのノンペは燃える男で〝火〟〝リーダー〟はおとなしい?ので〝林〟。残った僕が〝風〟。よー風邪ひくやっちゃなー。みたいなレベルでないかと思うんですが、

 本当のところは、当時僕が凝っていた星占いでは僕は〝みずがめ座〟で〝風の宮(きゅう)〟といわれるグループだったので自分は風なのだ!とかなんとか訳の判らんことを言ってた気もします。これに引っ掛けてボーカルが走って走ってどうしようもない僕(速き事風の如く)と、今っ!今リードギターのパートやがな!何黙ってんねん!(静かなる事林の如く)というド忘れの〝リーダー〟。
 皆のリズムについていけなくて手が動かない(動かざる事山の如し)ドラムの山ちゃん・・・。

これが風林火山かな?


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