クイーン・オブ・ターフ No.501
「レースが確定するまで、お手元の勝馬投票券は大切にお持ちください」
アナウンスを背中で聞きながら、僕は競馬場を後にした。確定するのを待つまでもなく、ただの紙切れに変わってしまったそれをゴミ箱に捨てた。
「なんで買わへんかったんやろか」
と、声には出さずに呟いてみても、当然結果が覆る事はない。
考えるだけ無駄なのだが、どうしてもしばらくは頭から離れない。馬券を買う前の自分に教えてやりたいと思う。人の意見を聞き入れるべきではないと。
競馬を始めて数ヶ月が経ったが、この日、僕は博打の真髄を見たような気がした。
すなわち、自分の予想を、むしろ自分自身の精神力を信じきる勝負なのだ。
使い古された、手垢まみれの言葉だけど、自分との戦い、なわけだ。
レースの前から既に負けていた気がした。
競馬は血統が重視される、ブラッドスポーツと言われる。
ランニングホースと呼ばれていた時代から、人々は速い馬、強い馬を求めた。
およそ300年程前、3頭の種牡馬が出現した。現在のサラブレッドの血統を遡ると、いずれかの馬に辿りつく。
サラブレッドの3大始祖。
ダーレーアラビアン、バイアリーターク、ゴドルフィンアラビアン。
それらから、エクリプスや、ヘロド、マッチョムなんていう強い馬が生まれた。
サラブレッドの生産をロマンと言う人もいる。
近親交配によって、優秀な祖先の血を濃くし、さらに重ね合わせる事で影響力が強められ、それによりやや遠くに隔たったその祖先を再びこの世に蘇らせられる、という考えのもとサラブレッドは生産された。
つまりエクリプスやヘロドやマッチョムやらをもう一度この世に呼び戻そうというわけだ。
そのために、例えば、兄と妹や、母と息子を交配させる。
ロマンと呼ぶにはあまりにも恐ろしい行為。
悲しい競走馬の現実。
だけど、死んでしまった恋人を、悪魔に魂を売ってでも、この世に再び呼び戻したい、と願う男の気持ちのようなものなのだとしたら、それはロマンに近いものなのかもしれないと思う。
そんなロマン的なものを感じる事もなく、自分に負けた悔しさが募っていた。
僕はそれを振り払うように、走った、我が町のソウルマウンテンの頂上をめざして。
競馬とトレイルランニングの間には何も共通するものはないのだけど、とにかく鬱蒼とした山の中を本当に走った。
道順は大体分かっていた。
1人で来るのは初めてだった。
そばに誰の気配も感じる事もなく、ただ1人で黙々と走る。
時刻は夕方に差し掛かっていた。
日が少しずつ沈み、走っていても肌寒いほどの気温だった。
とても怖かった。孤独を感じた。今、僕を助けてくれるものは何もなかった。
「頂上に、頂上にさえ辿り着けば」
そこに何があるといわけではなかった。
よく分からないまま、僕はただ懸命に走った。
気が付くと、山頂に至る手前の神社に出てきていた。
あともう少しだ。
まだ恐怖と孤独はそばにいた。
頂上を目指しラストスパート。
恐怖と孤独はまだ離れない。
目の前に山頂が見えてくる。
まだ、そばにいる。
頂上に立った。
僕は気が付いていた。
自分との戦いは、恐怖を制し、そして常に孤独である事を。
翌週の競馬に敢然と立ち向かう僕が、夕日に向かって立っていた。
悔しさはは、完全に晴れていた。
牝馬3冠クラシックレース最後の1冠、G1秋華賞
僕はある1頭の女の子に注目していた。
当初は体の弱いところもあってデビューは少し遅い。
桜花賞には間に合わなかったが、優駿牝馬では終盤ハナに立つも僅差の3着。
そこから休み明けの前走は、ぶっちぎり、最後は馬なりに流しての1着。
もうまず間違いなく、この子が1当賞を取ると定めた。
周りの人達は、
「そいつは、ない」
と言った。
不安がないわけではなかった。
小さな馬体に、初の関西輸送。
気まぐれな3歳の女の子。
それは分かっていた。
それでも、僕はもう迷わなかった。彼女と心中する覚悟は出来ていた。
秋の京都競馬場に、クイーンオブターフ、ファンファーレが鳴り響く。
胸が高鳴る。
ゲートが開く。
各馬が、一斉にスタートする。
1コーナーへ向かう。先頭争いが始まるなか、マイガールは後方内側待機。
先頭はまだ落ち着かない。
良い感じだ。
2コーナーを出る。先頭集団はそれなりの形を形成し、中団、後方と隊列を作る。
マイガールはまだ後方。
1000mを59.9秒で通過する。
その時、マイガールがススッと動き出す。軽やかに。とても良い!
僕の手がジワッと汗ばんできていた。
かつて無い興奮だ。
3コーナー、そのまま先頭集団7番の女の子の後ろに取り付いた。何かが変だ。
ここまでは僕の予想通りの展開。
そしてこのまま、先頭集団から抜けだして……
先頭集団に取り付いた?
取り付くんじゃない。
そのまま行くんだろう?
まさか止まるなんて事は……
4コーナーを抜けて最後の短い直線へ。
他の馬がラストスパート、動きだしている。
逃げ馬は逃げ切りをはかっている。
マイガールは、先頭集団やや後方……
何故まだそんな所にいるんだ!
「行けー!!」
声に出して叫んでいた。
レース最終盤。
各馬が足を伸ばしていく。
マイガールは、まだ伸びない。
少しずつ、置いていかれる。
直線が短い京都競馬場。
もう、届かない。
7番の女の子が1番にゴールした後、マイガールは10番目にゴール板を過ぎた。
僕と彼女の秋華賞は終わった。
濃密な2分弱。
負けた。悔しかった。彼女はもっと悔しいだろう。
また紙切れに変わってしまった勝ち馬投票券。
それ眺めながら、しかし僕の中に清々しさがあった。
負けた。言い訳はない。キッチリと負けた。
だから、また戦える。
そういう清々しさが。
「レースが確定するまで、お手元の勝馬投票券
は大切にお持ちください」
アナウスを背中で聞きながら、僕は競馬場を後にした。真っ直ぐに前を見つめ、背筋はシャンと伸びていた。
もう心残りはなかった。
僕には、次の戦いが待っている。
競走馬達のある種の悲しみ秘めた目が、僕の背中を見つめていた。
また、お目に掛かりましょう。
アナウンスを背中で聞きながら、僕は競馬場を後にした。確定するのを待つまでもなく、ただの紙切れに変わってしまったそれをゴミ箱に捨てた。
「なんで買わへんかったんやろか」
と、声には出さずに呟いてみても、当然結果が覆る事はない。
考えるだけ無駄なのだが、どうしてもしばらくは頭から離れない。馬券を買う前の自分に教えてやりたいと思う。人の意見を聞き入れるべきではないと。
競馬を始めて数ヶ月が経ったが、この日、僕は博打の真髄を見たような気がした。
すなわち、自分の予想を、むしろ自分自身の精神力を信じきる勝負なのだ。
使い古された、手垢まみれの言葉だけど、自分との戦い、なわけだ。
レースの前から既に負けていた気がした。
競馬は血統が重視される、ブラッドスポーツと言われる。
ランニングホースと呼ばれていた時代から、人々は速い馬、強い馬を求めた。
およそ300年程前、3頭の種牡馬が出現した。現在のサラブレッドの血統を遡ると、いずれかの馬に辿りつく。
サラブレッドの3大始祖。
ダーレーアラビアン、バイアリーターク、ゴドルフィンアラビアン。
それらから、エクリプスや、ヘロド、マッチョムなんていう強い馬が生まれた。
サラブレッドの生産をロマンと言う人もいる。
近親交配によって、優秀な祖先の血を濃くし、さらに重ね合わせる事で影響力が強められ、それによりやや遠くに隔たったその祖先を再びこの世に蘇らせられる、という考えのもとサラブレッドは生産された。
つまりエクリプスやヘロドやマッチョムやらをもう一度この世に呼び戻そうというわけだ。
そのために、例えば、兄と妹や、母と息子を交配させる。
ロマンと呼ぶにはあまりにも恐ろしい行為。
悲しい競走馬の現実。
だけど、死んでしまった恋人を、悪魔に魂を売ってでも、この世に再び呼び戻したい、と願う男の気持ちのようなものなのだとしたら、それはロマンに近いものなのかもしれないと思う。
そんなロマン的なものを感じる事もなく、自分に負けた悔しさが募っていた。
僕はそれを振り払うように、走った、我が町のソウルマウンテンの頂上をめざして。
競馬とトレイルランニングの間には何も共通するものはないのだけど、とにかく鬱蒼とした山の中を本当に走った。
道順は大体分かっていた。
1人で来るのは初めてだった。
そばに誰の気配も感じる事もなく、ただ1人で黙々と走る。
時刻は夕方に差し掛かっていた。
日が少しずつ沈み、走っていても肌寒いほどの気温だった。
とても怖かった。孤独を感じた。今、僕を助けてくれるものは何もなかった。
「頂上に、頂上にさえ辿り着けば」
そこに何があるといわけではなかった。
よく分からないまま、僕はただ懸命に走った。
気が付くと、山頂に至る手前の神社に出てきていた。
あともう少しだ。
まだ恐怖と孤独はそばにいた。
頂上を目指しラストスパート。
恐怖と孤独はまだ離れない。
目の前に山頂が見えてくる。
まだ、そばにいる。
頂上に立った。
僕は気が付いていた。
自分との戦いは、恐怖を制し、そして常に孤独である事を。
翌週の競馬に敢然と立ち向かう僕が、夕日に向かって立っていた。
悔しさはは、完全に晴れていた。
牝馬3冠クラシックレース最後の1冠、G1秋華賞
僕はある1頭の女の子に注目していた。
当初は体の弱いところもあってデビューは少し遅い。
桜花賞には間に合わなかったが、優駿牝馬では終盤ハナに立つも僅差の3着。
そこから休み明けの前走は、ぶっちぎり、最後は馬なりに流しての1着。
もうまず間違いなく、この子が1当賞を取ると定めた。
周りの人達は、
「そいつは、ない」
と言った。
不安がないわけではなかった。
小さな馬体に、初の関西輸送。
気まぐれな3歳の女の子。
それは分かっていた。
それでも、僕はもう迷わなかった。彼女と心中する覚悟は出来ていた。
秋の京都競馬場に、クイーンオブターフ、ファンファーレが鳴り響く。
胸が高鳴る。
ゲートが開く。
各馬が、一斉にスタートする。
1コーナーへ向かう。先頭争いが始まるなか、マイガールは後方内側待機。
先頭はまだ落ち着かない。
良い感じだ。
2コーナーを出る。先頭集団はそれなりの形を形成し、中団、後方と隊列を作る。
マイガールはまだ後方。
1000mを59.9秒で通過する。
その時、マイガールがススッと動き出す。軽やかに。とても良い!
僕の手がジワッと汗ばんできていた。
かつて無い興奮だ。
3コーナー、そのまま先頭集団7番の女の子の後ろに取り付いた。何かが変だ。
ここまでは僕の予想通りの展開。
そしてこのまま、先頭集団から抜けだして……
先頭集団に取り付いた?
取り付くんじゃない。
そのまま行くんだろう?
まさか止まるなんて事は……
4コーナーを抜けて最後の短い直線へ。
他の馬がラストスパート、動きだしている。
逃げ馬は逃げ切りをはかっている。
マイガールは、先頭集団やや後方……
何故まだそんな所にいるんだ!
「行けー!!」
声に出して叫んでいた。
レース最終盤。
各馬が足を伸ばしていく。
マイガールは、まだ伸びない。
少しずつ、置いていかれる。
直線が短い京都競馬場。
もう、届かない。
7番の女の子が1番にゴールした後、マイガールは10番目にゴール板を過ぎた。
僕と彼女の秋華賞は終わった。
濃密な2分弱。
負けた。悔しかった。彼女はもっと悔しいだろう。
また紙切れに変わってしまった勝ち馬投票券。
それ眺めながら、しかし僕の中に清々しさがあった。
負けた。言い訳はない。キッチリと負けた。
だから、また戦える。
そういう清々しさが。
「レースが確定するまで、お手元の勝馬投票券
は大切にお持ちください」
アナウスを背中で聞きながら、僕は競馬場を後にした。真っ直ぐに前を見つめ、背筋はシャンと伸びていた。
もう心残りはなかった。
僕には、次の戦いが待っている。
競走馬達のある種の悲しみ秘めた目が、僕の背中を見つめていた。

また、お目に掛かりましょう。