第3次パソコンブーム到来

(掲載当時は2005年です) 戻る  次へ

1983年頃から、3回目のパソコンブームが始まります。
PC8801をバージョンアップしてPC8801mkⅡが出たように、従来の機種をバージョンアップしたものが続々出てきます。そしてパソコンとしての機能だけでなくゲーム機を意識して作られたMSXシリーズも出てきます。

縦型モニターのPC100シリーズやPC9801、PC6001、PC8001の
バージョンアップ品が続々出てきました




(月刊トランジスタ技術 1984年2月号より)
形状は現代のパソコンに近くなっているのですが、機能やメモリーはまだまだです




ゲーム機を意識して作られたMSXシリーズ


パソコンとしての機能はいまいちですが、ゲーム機としては結構なもんでした。
(月刊RAM 1982年2月号より)

ようやくフロッピーディスクが普及しだし、だいぶ今のパソコンらしくなってきましたが、ハードディスクが内蔵されたものはありませんでした。

搭載されているメモリーもまだ少なくアプリケーションも小規模でしたので、いま思えば確かにハードディスクの必要性はありませんでした。でも、さすがに8インチのフロッピーディスクは少なくなって、ほとんどが5インチディスクです。1枚に640KBが入りました。
 『今の半分以下?』
そうですね。それでもなかなか一杯にならなかったです。
それに値段も高く1枚で1,200円ぐらいしてました。
 『たかぁ~い!』
まぁ、出たばかりですから、そんなもんでしょ。



 この頃、世間ではすでにCP/MとかMS-DOSとかが出ているのですが、まったく知りませんでした。
 『何それ?』
ディスクドライブがパソコンに付き出すと、何もBASICばかりが、パソコンを動かすプログラムでは無くなって来るということです。

アセンブラだけで動くプログラムをディスクから読み取って、それで何か仕事をさせることができますので、そのための基本的なコントロールをするプログラムのことで“OS”と呼ばれるものです。

その頃国産のパソコンにはまだ“OS”という考え方が無く、いや、あったかもしれませんがBASIC主体でしたので、わざと搭載しなかったのかも知れません。
 『ふ~ん』
ようするに、フロッピーディスクが普及すると、いままでのようにプログラムをカセットテープから読み込むという、とんでもない旧式なやり方をしなくてもすみます。

 『マッチから、ライターになったようなもの?』
うまい、表現ですね。でも〝マッチから〟ではなく、木をこすって火をおこしていたのが、マッチで火をつけるぐらいだと思います。ライターに代わるものは、この先に出てきますが、ハードディスクでしょう。

 『おおぉ。うまい! やまだ君、座布団一枚やって』

 プログラムが簡単に読み込めるということは、ソフトメーカーが作った便利なプログラムを買ってきてすぐに使えるいうことです。ですので、自分でプログラムを組むことだけがパソコンだった時代が、終わりに近づいたということです。別のいい方をすると、プログラムなんか関係ない人でもパソコンを触る時代が来る、といった方がいいかもしれません。

 『あたしのことだ』
 です、です。


1984年、当時の広告に出ていた新型機、PC9801FとPC8801mkⅡ



フロッピーディスクが普及してきていますが、ハードディスクはまだありませんでした。
(月刊トランジスタ技術 1984年2月号より)



同じ雑誌にPC98用のハードディスクの広告が載っていました。



ぬあ~んと、たったの10MBで44万8000円!! 驚きの価格!!
(月刊トランジスタ技術 1984年2月号より)



2005年現在。250GB (250000MB)で1万8000円。

2011年現在。250GBはもう売っていません。
500GBで、9千800円というのがありました。
2TB(2000000MB)で2万円~2万6千円ぐらいです。
4TBで3万8千円というのがありました・・・。 

2020年現在。4TBが標準になりました。
2TBで1万円を切り、6TBで2~3万円台です。







 1988年。PC8801MkⅡの上位機種 MR購入。
 『相変わらず、8ビット機?』
そうです。まだ、8ビット機にしがみついていました。

第3次パソコンブームも後半になった1988年、MS-DOSが浸透してきている時代に、ようやくCP/Mを手に入れました。そして、このとき初めてMACRO-80というマクロアセンブラと、エディタのWord-Materに触ることができたんです。ここに来て、やっと本格的に8ビット機でアセンブラが組めるようになりました。

 『え~? やっと? すごく遅れてるよ』
 そうなんです。なぜこんなに遅れたのかはわかりません。おそらく情報をうまく取り入れられなかったんでしょう。それか、パソコンとはこんなものと思い込む、いつもの悪い癖でしょうか。
 MS-DOSはマイクロソフトが、もともとあったQDOSという“OS”をSeattle Computer Productsから買い取って改良したものです。それをIBMの初のパソコン、PC/AT機に搭載したのが1984年頃です。
 『やっぱり、コンピュータ先進国ね』



パソコンを始めて10年、アセンブラを始めて8年目。ようやくCP/M上でマクロアセンブラやリンカが使えるようになり、たいへんうれしかったのを覚えています。しかし、それと同時に自分のやってきたことの小ささとプロ仕様における規模の違いに圧倒されました。
 『へぇ~』


 昔から使ってきたワンパスアセンブラと比べるとマクロアセンブラというのは、ジャンプ先のラベル管理もしてくれますし、さらには、たくさんのプログラムを集めて一つのプログラムに構築することもできましたので、バグの無いプログラムをモジュールとして残しておけば、別のプログラムでそれを再利用できるようになります。

この機能のおかげでソフトウエアの開発が飛躍的に楽になります。このあたりがプロの開発ツールですね。今までのやり方がいかに非合理的だったか痛感しました。
 『よくわかんないけど、よほどすごいもんなんだ』
はい、そうです。リヤカーで荷物を運んでいた世界から、いきなりトラックで運べるようになったという感じです。
 『ふぇぇ~』
その日から飢えた動物のように、CP/M上で走るこのアセンブラにむしゃぶりつきました。まるでギブスが取れて自由に動けるようになった怪我人の気分でした。
 『ふ~ん。 ケガ、治ってよかったね』

 えっ? ちゃんと聞いてます?
 『うん』



 PC88MkⅡMRで初めにやったことは、他社製品のROMエミュレータを改造して32Kバイトに容量を増やし、それをPC88mkⅡMRに接続して、そのコントロールプログラムをマクロアセンブラで作成しました。

 次にBASICでできていたキャラクタのデザインプログラムをすべてアセンブラで動くようにし、自動的に作られたキャラクタのROMデータをそのままゲーム基板のキャラクタROMへ転送する、キャラクタ専用のROMエミュレータも自作しました。
 このエミュレータは、かなり苦労して作ったのですが、PC88mkⅡMRは8色までしか表示できませんので、その画面上では8色に丸め込まれた色で表示されており、ゲーム機へ転送してから初めて正しい色が出るという欠点がありました。そのため作業中のパソコン画面を見ていると、めまいがするほどのサイケデリックな色盲検査のような画面でした。
 『苦労が実らないね』
いや、この時代にはゲーム機専用のデザインソフトなんてありませんから、これでもちょっとした自慢でしたよ。
 『めまいしながら?』
はい・・・。クラクラしながらです。
 『ば~か』


 実はこの頃、すでにプロとしてデビューしていたんです。
 『えっ? いつのまに?』
そして……ついに私がZ80を去るときがやってきました。
 『去るって? パソコンをやめるの?』
いや、いや。やめるわけは無いでしょ。もう、のめり込んで〝じゅるじゅる〟ですから。
 『なんか汚いなぁ。表現が・・・。』
去るではなく〝次の段階に移る〟というべきですね。


 日本ではBASICオンリーのマシンがほとんどという中で、アメリカではどんどん新しい考え方が生まれており、圧倒的に技術も進んでいました。そしてその年には、ついにAPPLEから現代のパソコンの原型となるマウスでアイコンを選んで操作するという、GUI方式を採用した、Lisaというパソコンが登場しますが、これがなんと、いまと同じようにハードディスクが搭載されていたのです。

このマシンがMacintosh(マック)の原型に、いや、MS-DOSがWindowsに世代交代させられる起爆剤にもなっていきます。
 『おお~ぉ。でっ、日本は?』
1983、84年あたりから、他のメーカーもNECに対抗して、続々とパソコンを出してきています。

富士通からはFM-8のコストダウンタイプでFM-7(12万6000円)、 シャープからはX1(15万5000円)などが出てきますが、先進するアメリカとは裏腹に日本では相変わらず“OSが”が搭載されていないBASIC主体の機種で沸いていたように思えます。

やがてMS-DOSの脅威に気付いたNECが、MS-DOSをPC9801用に移植して使えるようにしましたが、8ビット機は相変わらずBASICがメインで除々にパソコン市場の片隅に追いやられていきました。


 1990年。これまでちっぽけな島国のことを無視していたIBMでしたが、日本語が使える低価格なDOS/V機を登場させました。NECの独壇場だった日本のパソコン市場にあっという間に浸透し、世の中はMS-DOS一色になり、ついにBASICは廃れていきました。

 日本の情報に踊らされていた筆者は、世の中の動きを知らずに、さすがにBASICは使わなくなりましたが、相変わらず安物のワンパスアセンブラでプログラムを組む毎日でした。
 『かなしぃねぇ~。 でも、MS-DOSってそんなに便利なものなの?』
便利とは言いがたいですが・・・。欠点だらけというか・・・。そのまえに、筆者の場合MS-DOSを使い出すのは、まだまだ先の話です。

世の中が完全にMS-DOS一色になりだした頃、本来ならPC98やその他のDOS/V機に移って行くのでしょうが、どうしても移る気にならなかったのです。
 『なんで?』
どのマシンもゲーム機と比べて発色数に満足行くものがありませんでした。PC98など16色、よくて256色しか出ません。でも、ゲーム機はほとんどフルカラーです。キャラクターのデザインをするには色数が足りないんです。


 1992年。やっと答えが出ました。
 『は?』
数万色もの色が使える新型機がシャープと富士通から出ているのに気がつきました。これが有名なX68000XVIとFM TOWNSです。
 『聞いたことある』
どちらも甲乙つけがたい性能で、とくにFM TOWNSのCD-ROMドライブ標準実装というのが当時では驚きでした。ただ、マニアが触りやすい環境が整っていたのはX68000の方だったと思います。

シャープ社の【X68000XVI】
RAM2Mバイト標準実装(最大12Mバイト)

(月刊Oh! X 1993年12月号より)

CPUにモトローラー社の6800016MHzを採用
80Mハードディスク内臓タイプは51万8000円。
フロッピーが3.5インチでなかったのが残念です。







モトローラの68000CPU

(筆者撮影)


富士通社の FM TOWNSⅡ はMS-DOSの欠点を克服し大容量RAMが搭載可能なシステムになっていました。

富士通社の【FM TOWNSⅡ】
(月刊Oh! X 1993年12月号より)


1992年ごろの広告をみると100Mバイトのハードディスク内臓で53万3000円。CPUはインテル社の386でした。

 X68000とFM TOWNSとどちらが性能がいいかよく論じ合っている雑誌がありましたが、いまとなってはどうでもいい感じがします。ただ、いえるのはPC98やDOS/V機より性能は上だったのにもかかわらず、売れたのはPC98やDOS/V機です。
なぜか、納得がいきません。
 『なるほろ。 でも、それが世の常なんよ』




FM TOWNS と X68K(Kは×1000の意味です。呼びにくいので当時は〝ロクハチケー〟と呼んでました)は、当時最先端だったんではないでしょうか。

PC98やDOS/V機がようやく16色、256色カラーになりだし、MS-DOSがOSとして定着した頃に、このマシンらはすでに6万5000色対応、ミュージック関係には欠かせないFM音源ADPCM、そしてハードディスクも搭載されるという、PC98には無い機能ばかりでした。ただ、値段がものすごいですけど・・・。
そんな中でX68Kを選びました。
 『なんで?』
小さな理由です。
 『なに? 聞きた~い』
FM TOWNSの方はキーボードが別売りというのが気に入りませんでした。広告を見てもキーボードは価格に含まれていません、と書いてありました。そんなへんな話は無いだろうと、お店で問い合わせると「本体は今あるけどキーボードは取り寄せになる」とのことで、買うのをやめました。
 『なるほろ。へんな話』
それで、即日購入できたX68Kにしたわけです。

X68KのOSはHuman68Kというシャープ独自に開発したものが走っていて、機能拡張したSX-WINDOWという、いまのWindowsのようにマウスでアプリケーションを操作することもできました。この頃、マイクロソフトからWindows3.0というのが出てまして、これが今のWindowsXPやWindows7の原型で、やがてGUIがパソコン操作の基本になる時代に突入していきます。

何よりもX68Kが気に入った理由は、プログラマー向けの開発キットというのが販売されていたからです。この開発キットには、アセンブラリンカデバッガ、などすべてそろっており、詳しい解説が書かれた分厚い本が何冊も付属していました。

また、OSであるHuman68Kの解説本にはDOSコールやIOCSコールの細かい説明も書かれており、初めてZ80のアセンブラを始めたときと同じ感動をこのマシンで再び味わいました。
 『マニア君、絶賛ちゅうわけね』
開発者向けって言ってくださいよ。
 『あんたは、パソコンマニア!』
ちがいます。パソコンのことは今でもほとんど知りませんよ。どうやって作るかぐらいは知ってますけど。
 『そこが変なのよ』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。






開発キットに含まれていた数々の説明書



X68KのOSの中身が詳しく書かれていました。



X68Kユーザーのバイブル的な書物【Oh!X】1993年12月号


X68Kのことだけが書かれていました


パソコンなのにスプライト機能や音源関係まで搭載されて、X68Kはゲームマシンを意識しているのがわかります。そして資料もそろっており、ほんとうにうってつけのマシンでした。PC98には見向きもせずに即、購入したのがわかってもらえると思います。

 Z80のときはCP/Mを知るのが遅かったったために、マクロアセンブラを使い出すまでにかなり遅れをとったという、いやな経験をしていますので、本体購入時に先ほどの開発キットなるものも同時に購入しました。高い買い物ですが入社した会社の好意もあり、開発キットは経費扱いで手に入れることができました。
 『ラッキーなやっちゃ』
はい、ラッキーです。私の技術を買ってくれていましたので、勉強するならいいよ、という感じで与えてくれたんです。もちろんその好意に応えるために、早速68000というCPUのアセンブラを猛勉強しました。

代々製作してきたゲームキャラクタのデザインシステムですが、これまではパソコンの発色数が足りずに完璧なものはできませんでしたが、X68Kを使用すると完全な形で完成させることができました。

これはX68K上でデザインしたキャラクターが、色も含めて、そのままゲーム機に自動的に転送されるというもので、パソコン上もゲーム機上も同じ絵柄が同じ色で発色していて画期的なものになりました。
 『すごいね』

そして当時のゲーム機もFM音源という発音方式が主流になっており、このX68Kに搭載されていたYAMAHAのFM音源IC、YM-2151というのがゲーム機にそのまま使えました。

そこでマウスを使用した完全なGUI方式で、X68Kの画面上に書かれている五線譜の上に音符を貼り付けていくだけでゲームミュージックの編集ができる、今で言うMIDI編集ソフトのようなものを作りました。

その頃PC98用のMIDIソフトで〝ミュージ郎〟というのが販売されていましたがそれとよく似たものです。ただ、こちらはゲームミュージック開発用のアプリケーションですので、MIDIをコントロールするのではなく、あくまでもFM音源ICのデータの作成を専門にします。最終的にはオリジナルボードのゲームミュージックのROMデータまで自動的に作ってくれるという画期的なものでした。

 『自分で画期的って言う? ふつう・・・』
 いやぁ。当時の社長は大喜びしてましたよ。だって、どこにも無いんですからそんなアプリケーションは・・・。
 『ところで、いつプロデビューしたの?』
 じつは、とんとん拍子でここまできたのではなく、結構苦労するです。これが・・・・・。
 『そうだろうと思った』





 ようやく念願のデビューを果たした筆者ですが、この先いろいろと版権の問題が絡んできます。このまま書き綴ってもいいものか、とても悩んでおります。そこでこれらの問題が解決するまでは記載を断念し、クソゲー後日談(2020年 5月掲載)を書かせていただきました。そしてさらなる資料が発掘できましたので、あわせてご覧ください。